今回は、鹿児島県の南西部に位置する沖永良部島で開業されている朝戸医院の朝戸末男院長先生にお話をお伺いしました。
沖永良部島ご出身の朝戸院長先生は、島外で学生時代を過ごされた後、沖永良部島へ戻られたそうで、もう35年ほど島の方々の健康を支えていらっしゃいます。離島であるというハンデを乗り越えるため、様々な努力をされていることが実感できた貴重なインタビューとなりました。
それでは、インタビューをご覧ください。
ドクターになられたきっかけについて教えてください。
もともと、高校時代は電気系に興味があったのですが、父親から医学部を受けてみたらどうかと勧められたこともあって、1期で長崎大学の医学部を受けることになりました。2期は、東京の電気通信大学を志望していました。
電気通信大学の方は受験しに行き試験会場の下見までしましたが、途中で長崎大学の合格通知が来たので実際には受験はしませんでした。医者になりたいという強い欲求というよりも偶然が重なったという感じですね。
沖永良部島へ戻られたきっかけについて教えてください。
当時の沖永良部島には2万数千人の島民がいましたが、6名の先生方が島の医療をささえておられました。 外科の先生がおられず島の方々が困っているということを町長さんなどから聞いていました。
そこで、医学部卒業時にいろいろな先輩方に「ゆくゆくは島で医療をするために外科を学びたいのですが、どこがいいでしょうか。」と相談をしていました。郷里出身で千葉大学の外科におられた先輩の勧めで東京女子医大消化器病センター外科へ入局しました。 当時は今と違って直入局の時代でした。 東京女子医大は「医療錬士制度」という、今で言うレジデント制の卒後トレーニングプログラムを持っていました。 6年間の研修後 教室の大先輩の誘いで千葉県の新設病院の立ち上げを手伝いました。 その後、郷里の沖永良部に帰るにあたり整形外科の知識もある程度必要と考え、センターの教授に 金沢文庫の整形外科の専門病院を紹介してもらい、そこで一年間、整形外科も勉強しました。 簡単な手足の骨折や整復、固定程度の治療はできないといけないなということで取り組んでいましたね。
院長先生が沖永良部島へ戻られたのは30代半ばということですが、当時、印象に残っている出来事などがあればお聞かせください。
あの頃は、消化器外科に関してだけではなく、交通外傷、腎臓破裂や肝臓裂傷などの救急外科、 子宮外妊娠破裂などの手術をしていましたね。まだ島内には救急車がない頃だったので、そのような患者さんがいた時には、役場の職員がバンに乗せて運んでいました。
一度、私がたまたま日曜日に家族を連れて海水浴に行っていた時、畑で耕運機のロータリーに足を巻き込まれ、動けないという方がいまして。私が見当たらないということで全島に捜索がかかって呼び出され、畑まで行くことになりました。そこで足を切断し、手術室に連れて帰ってきて断端処理手術をしたこともありましたね。
また、当時はドクターヘリはなく島外への救急搬送は自衛隊のヘリを使わないといけない時代でした。どうしても手に負えない場合は沖縄に運んでいました。
今でもそうですが、自衛隊ヘリは医者が同乗していないと飛びません。そのため、私が一緒に乗って夜間飛行し、沖縄の救急病院、多くは県立中部病院でしたが担当の医師に引き継ぎ、それが終わると、那覇へタクシーで行って宿泊し、朝の7時半の船に乗って午後3時ごろに島に帰ってくるということを3年くらいしていましたね。
そのうち、沖縄と沖永良部間に民間のセスナ機が飛ぶようになったので、それで帰って来たこともありますし、セスナをチャーターしたこともあります。チャーターすると11万円かかっていましたが、外来に穴を開けるよりはいいということで利用していました。
都会だと当たり前のことが、こちらでは当たり前ではないですよね。
そうですね。島の方々は運命共同体みたいな意識があり、医者に対してあまり無理なことは言わない方がほとんどでした。 先生が一生懸命やってくれたらそれで十分ですというところがありましたので、医者と患者さんのリレーションがすごく良かったと感じています。
考えてみると、それが今で言うファミリードクターということですよね。
おじいさんを診て、息子を診て、孫を診てということが普通ですし、かれこれ30年くらいしていますと家族構成なども頭にインプットされていますからね。家族ごと診れるということはすごく張り合いがあります。これが離島の医者の仕事の一つの原動力となっているのではないでしょうか。
島の医療について、特に配慮されている点などがあれば教えていただけますでしょうか。
都会には専門の先生がいますが、こちらではやはり、自己完結的な医療を追求しないといけないと思っています。「これ以上の検査はできないから島外へ行ってください」ということは気安くは言えません。運賃も5,6万、さらにご家族の方の滞在費もかりますからね。
だから、どうしても検査や治療できないような命に関わること以外は、できるだけここで結論を出さないと考え、そのため、診療所には内視鏡、CT、エコー、マンモグラフィーなど、できる限り設備投資はするようにしてきました。まさに、重装備型診療所といった感じですね。
その後、知名町に沖永良部徳洲会病院ができて、各科専門の先生方が月に数日ずつ内地や沖縄から来て外来や検査や処置をしてくださっているようになったので、必要があればそちらにもご相談させて頂くようにしています。
輸血に関しても帰島当時は緊急の生血輸血をしたことがありました。でも生血輸血には感染のリスクがありますよね。緊急的に救命のための輸血をした場合でも、そこから感染することはどうしても避けなければなりません。
そこで、8年前に医師会と行政当局とで話し合いをし、徳州会病院の検査室に保管管理について御協力も頂いて今では島内に日赤からの血液を備蓄できるようになりました。保存期限の関係で廃棄血が出ることもありますが、これに関しては行政のほうにお願いして補助してもらっています。
現在は医工連携が叫ばれていますが、こちらではかなり前から取り組まれているとお伺いしました。
そうですね、もう25年ほどになるでしょうか。
今でこそインターネットが普及して世界中どことでも瞬時につながることができますが、当時は1200bpsの低速電話モデムでの通信でした。 ITの基礎を自分で勉強してきましたがもともとアマチュア無線をしていたこともあり電気関係は趣味でもありましたので好きでした。
院内のLANは自分で配線から引いていました。 またレントゲン機器や内視鏡機器の不具合などもできるだけ自分で対処してきました。 鹿児島からサービスを呼ぶにしても時間的、金銭的コストも大変ですのでね。
院内では他に、電子カルテやレセプトコンピューター、画像サーバーシステムなどを使っていますが、何らかの原因で動かなくなってしまった時には、仕事が止まってしまいますよね。その時、何が問題なのか切り分けをして、その場で解決しなくてはなりません。 また先の東北大震災のような災害はいつ起こるかもわかりませんよね そのような事態で医療がストップすることを避けるため、何が起こっても診療は継続できるようにいろいろな対応をしてきました、医療情報などは必ずバックアップを取るようにしています。
電子カルテのデータは外部の有料クラウドに毎晩自動的にバックアップするようにし、もし被災したとしても、パソコンがあればすぐに電子カルテシステムは復旧できるようになっています。電子カルテは副院長が帰島してから導入してちょうど3年ほどになりますが、ようやく慣れてきました。
当院のCTはもう三代目、20年ほど使っています。導入したきっかけは、頭部外傷の事例に対応するためでした。交通事故などで頭に外傷を負った場合、いつ容態が急変するかわからないですし、もしも、今晩何か起これば沖縄に飛ぶぞと覚悟をして様子を見ていました。それが、CTを導入することで、安心して眠れるというメリットがありますよね。
今では島内に徳洲会病院もありますから、連携しながら治療にあたっています。
鹿児島大学から眼科の先生が来られていますが、どのようなきっかけがあったのでしょうか?
眼科は一番専門性が高く、自分で診療や治療を行うには難しい部分もあります。以前からその必要性を感じていましたので、診療所の増築の際にはどうしても眼科診療は始めたいと思っていました。
ちょうどその頃、副院長が大学時代の部活の先輩の眼科医に会った際に当院の眼科新設についての話をしたら興味を示してくださって教授や医局にお願いすることができ、鹿児島大学眼科医局として協力していただけるというお話に繋がりました。 現在は毎月6―8日間眼科医を派遣してもらい白内障の眼内レンズ挿入手術もできるようになりました。
沖永良部島は離島としては大きいので、様々な面において、他の島よりも充実しているのではないでしょうか。
そうですね。スーパーなども揃っていますね。私としては、離島ではあるけれども、へき地ではないと思っています。
若くして赴任される学校の先生や県職員の方は、島へ来る前は医療機関のことを気にされるようです。しかし、実際に来てみて安心したという声をよく耳にします。やはり、小さい子供がいる家庭などは心配ですからね。
何かあった時に患者さんを送る場合は、鹿児島が多いのでしょうか?
紹介状を書いて患者さんを紹介する病院を選ぶ際、最も大きな決定要因は、ご家族の希望です。自分の身内や子供がいるところにして欲しいといった理由ですね。ちなみに、手術等で患者さんを送る場合、5割が沖縄ですが、次いで鹿児島や阪神が5割くらいでしょうか。 紹介先の先生方は突然の紹介でも快く受けていただき有難いと思っています。
ゲネプロ代表の齋藤学先生との出会いについて、お聞かせいただけますか?
副院長:医学部6年生の時、いわゆるポリクリで各診療科をまわった時のことです。将来こちらに戻ってくるかもしれないということを考えていたので、下甑島手打診療所の瀬戸上健二郎先生の所で一カ月間地域医療実習をさせて頂いたのですが、そこで、沖縄の浦添総合病院から応援医として来ていらっしゃっていた齋藤先生にお会いしました。奥様といっしょにいらしていて、滞在中はたびたび食事をご一緒させて頂いて色々なお話をしました。
その時、来年以降の初期研修どうするのかといった話もしていた中で、齋藤先生が当時いらっしゃった浦添総合病院を勧めてくださいました。 救急医療に熱心に取り組んでいる病院で、また群星沖縄臨床研修プロジェクトに参加しており研修には適しているとのことで、病院見学に行き、御縁あって入職し齋藤先生のもとで臨牀研修させて頂きました。
また、その頃救急総合診療部部長でいらした井上徹英先生が当時沖縄には無かったドクターヘリの必要性を認識しておられ、浦添総合病院自前の救急ヘリ搬送システム(U-PITS)を運用して実績を作っているところでした。そんな中次は離島だということで試しにやってみようかと、自分の郷里である沖永良部島に飛ばして下さるようになったのが、沖縄県-鹿児島県で県をまたいでヘリ搬送が行われた最初の事例だったんですね。それ以降は、奄美各島へドクターヘリが行くようになりました。
本当に人との出会いの繋がりで、全くの偶然が重なって実現した出来事です。
ドクターヘリが飛ぶようになり、かなり医療環境も変化したのではないでしょうか。
本当に雲泥の差ですね。
以前、たまたま当院の事務長が心筋梗塞を起こしたことがあります。夜中に酒を飲んでいたところ、奥様から電話がかかってきて苦しがっていると。普通であれば自衛隊のヘリで同乗、搬送するところですが、午前4時くらいでしたので、浦添総合病院へまず受け入れに関して電話を入れました。
ちょうど、救急の先生が当番でおられ「自衛隊ヘリで、先生が付き添いで来ると診療に困るでしょうからこちらから迎えに行きますよ」と言っていただきました。そうしてすぐに、自衛隊のヘリで研修医の先生と二人で飛んで来てくれて、私は空港で待っていてバトンタッチし、迅速な治療ができたということがありましたね。本当にありがたかったです。
お子さんが4人いらっしゃいますが、島という環境で皆さんドクターになられています。小さな頃から教育面では配慮されていたのでしょうか。
それは、一言でいうと家内のおかげだと思っています。私は日常の診療業務で手一杯で子供たちのことまでは手が回りませんでした。彼女は、もともと学校の教員でした。教員生活は2年くらいしかなかったのですが、彼女の両親ともに学校の先生だったということもあり、子供の教育に関しては、環境がそうさせたところもあるのではないでしょうか。
本土から赴任してきた素晴らしい小学校の先生との出会いもありま先生の勧め
通信教育を受けさせたり 評判の良い塾を勧めてもらい、長期の休みにはみんなで鹿児島へ行き、塾にも通わせていました。
それなりに苦労もしました。学校も、鹿児島の進学校へただ行かせればいいということではなく、常に目をかけ続けなければいけないということを実感しました。 そのため、中学校から高校まで月の半分くらいは彼女が鹿児島へ行き、私は病院で食事の患者食で済まして生活するなど二人三脚で歩んできました。
結果的に、4人とも医学部に進むことができたのはそういった努力を惜しまなかった彼女のおかげですね。
副院長がこちらに帰ってきてくれたおかげで、現在は、年に2,3回くらい長期のお休みを取ることができます。これまで、北欧やアメリカ、スイスやイタリアなどを旅行し、30年間できなかった旅行を妻と一緒に満喫しています。
まとめ
今回は、沖永良部島で日々、診療にあたられている朝戸医院の朝戸院長先生と副院長先生にお話をお伺いしました。
離島というと、都市部と比較して設備面などに違いがあるのではないかと思われる方が多いかもしれません。しかし、こちらでは出来るだけ、島の中で診断から治療まで完結できるよう、医療機器の設備投資など様々な努力をされていらっしゃいます。
院長先生の話される言葉と姿勢を見ていると、島の医療を支えてきたという自信と責任感とがじわじわと伝わってくる感じで、島民の方も朝戸先生がおられることによる安心感は非常に大きいものなのだろうなと思いました。
インタビューの翌日にはオンライン勉強会にも参加させて頂き、離島でも鹿児島と同じ環境で学べるということを体験させて頂きました。
朝戸院長先生、副院長先生、お忙しい中、貴重なお時間を頂き、ありがとうございました。この場をお借りして厚く御礼申し上げます。
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