岸和田徳洲会病院の消化器内科チームは大阪での診療だけではなく、奄美地区・沖縄地区の離島医療をチームで支え、長年にわたり、大きな実績を残されています。
チーム内においてご自身で臨床も若手医師への指導も実践されている井上太郎 内視鏡センター長兼消化器内科主任部長にお話をお伺いしました。
今回はサポートされている病院の一つである宮古島徳洲会病院の医局にて、診療前の貴重な時間にインタビューの時間を作って頂きました。
離島でも都市部と変わらない良い医療を提供したいという思いのもと、離島医療のシステム作りなどに日々、力を注いでいらっしゃいます。
井上先生が描かれている離島医療の未来や、そこに関わるようになったきっかけなどを教えてくださいました。
- ドクターになられたきっかけについて教えてください
家族や親戚にドクターが多かったので、物心ついた頃から自然とドクターになるのだろうと感じていました。反抗期の時は、医者にはなりたくないと思ったこともありましたが。
当初は、祖父が整形外科医だったので、漠然とそちらの道を考えていました。
- 消化器科を選ばれた理由についてお聞かせください
初期研修医でローテーションしていた当時、私は救急医療に興味を抱いていました。福岡徳洲会病院で研修をしていたのですが、そこには年間1万件以上、救急車がきていましたので、自然と救急疾患について様々な経験を積むことができました。
そして、後期研修医になる際には、一旦は救急に携わって全身を診ることができるようになってから専門的な分野に進もうと考えるようになりました。
後期研修では、放射線科や外科、整形外科をまわるのと同じように消化器科へいったのですが、そこで内視鏡に興味がわいたことも理由の一つです。
そして、一番のターニングポイントは喜界島での出来事が大きく影響しています。
離島研修で3か月間、喜界島へ行ったときに夜間、吐血をして救急車で搬送されてきた50代の男性がいました。非常に状態が悪く、都会であれば緊急内視鏡をして止血する、出血がひどければ輸血をして命をつないでいくことになる症例でしたが、喜界島には内視鏡ができる専門医がいなかったですし、輸血用血液製剤もほとんど島には保管されていませんでした。
さらに、大きな病院があるわけでもなかったので、当時、3年目の後期研修医だった私はできる限りのことはしたのですが到底、治療することができませんでした。
そうこうしているうちに朝方になったので、ヘリで運ぶ手配をしていたのですが、到着するまでには3〜4時間かかってしまいます。すると、次第に島民の方々が集まってきました。患者さんはA型だったのですが、A型だから私の血を使ってくださいと。いわゆる生血輸血ですが、日本でまだこのようなことが行われているという現実に、カルチャーショックを受けたことを覚えています。
私自身もどうしていいかわからず、島の看護師さんに聞くと、島はこうやって命もつないでいるとのことでした。
生血輸血は感染症など色々な問題があるので、緊急時にしか使えない手段ではありますが、実際にその患者さんは意識もなくなりかけていて心臓も止まる寸前だったので、輸血をしながら奄美大島へ運びました。
搬送先の病院で、消化器内視鏡の先生に止血をしていただいたのですが、ものの5分か10分で治療を終えて患者さんを助けることができました。その時に、この技術を島で実践できれば生血輸血やヘリでの搬送もしなくて済む、と強く感じたのです。
私自身、大学病院や福岡で研修を受けましたが、喜界島での一件はインパクトが強く、次第に私が技術を離島に持っていきたいと考えるようになりました。
そして、最初は、技術を習得して島へ持って行こうと一生懸命、力を注ぐのですが、徳洲会は無限に離島に病院を持っているので、一人ではとても無理だということに気づきました。
そして、次は技術を持ったドクターを離島へ送るシステムを作るべきだと思い、人を集めて教育し、ドクターを送るようになりました。もちろん、技術が足りない部分は私がサポートに行くこともあります。
- 比較的、若いドクターは離島に行くことに躊躇することがあると聞くのですが、実際のところはいかがでしょうか。
やはり、離島医療は情熱がないと出来ないですよね。
例えば、よく聞かれるのが「離島ではいくらもらえるのか」「休日はどのくらいあるのか」といったことです。都会で働いていると、勤務環境が気になると思うのですが、そういう気持ちをちょっと避けて、離島医療に対する思いを大切にした人が集まらないとなかなか難しいですね。
徳洲会に入る時点で、救急医療や離島医療がやりたいという気持ちをある程度は持っていますし、情熱がある人が多いという点はやりやすいと思います。
- ご家族やご親戚には開業医の方も多いと思いますが、離島や救急の道を選んだのはなぜですか。
私は、医者になった時には「目の前で倒れた人を助けたい」というただそれだけの気持ちでいっぱいでした。専門外だからわからない、見て見ぬ振りをすることが嫌で、目の前で倒れた人は死なせないという強い思いを持っています。
それは、祖母が亡くなった時のことが大きく影響していますね。
当時、まだ小学生だったのですが、祖母が心肺停止になった時にたまたま医者である私の従兄弟が心肺蘇生をしたことで、心拍が再開し、一旦は状態が落ち着きました。
その後、2週間後に亡くなってしまうのですが、その2週間で小学生の私が祖母とお別れをする大事な時間を取ることができ、死を受け入れる気持ちも作ることができました。
もし、あの時、従兄弟がすぐに心配蘇生術をしなければ、こういう時間は取れなかったと後から母親に聞き、それは素晴らしいことだと強く感じました。それもあって、私も誰かが倒れた時には絶対にその場では死なせたくないと救急医療の道へ進みました。
- 自分の身を削って離島医療に携わっていらっしゃると思うのですが、そこにはどのような思いがあるのでしょうか。
離島に技術を届けようと思うと、少なからず誰かが頑張らないといけないと思っています。離島の患者さんに、ここでの治療は無理なので沖縄本島や東京、大阪など大きな病院へ行ってくださいと言うことは簡単です。でも、それは患者さんやその家族にとっては経済的にもその後のフォローもすごく大変なので、できれば島で医療を完結させたいと考えています。
岸和田の病院のこともあるので、今日も朝5時半に起きて7時の飛行機に乗って那覇で乗り継いで宮古島へ来ました。診療の時間にもよりますが、遅くなれば関空経由で自宅へ帰るのが23時になりますね。明日も、朝8時から診療が始まるという生活ですが、楽しんでやっています。
教育面においても、離島で指導の場を提供することがあります。いずれは指導を受けた先生が独り立ちし、私と同じような動きができれば離島医療がもっと広がっていくのかなと感じています。
- 先生のことを慕うドクターが周りにはたくさんいらっしゃいますが、相談しやすい環境作りなどにも配慮されているのでしょうか。
明確に、離島医療という一つの目標に対して頑張っていることがはっきりしているので、ある程度の一体感が出ていると思います。また、医者もそれぞれ年齢が少しずつ違うので、少し上やその上の年代の先生を見て、自分のビジョンを描きやすい環境になっていると思います。
- 最後に、メッセージがあればお願いします。
これまでの離島医療といえば、一人で何年間か離島で働いて頑張るというパターンでしたが、私はそれでは続かないと思っています。
ある程度、若い先生が都市部の大きな病院に所属して教育を受け、成長しながら、1週間や2週間といった短期で離島を支えていく。そして、足りない分は指導医が少し介入するというシステムが出来上がってきたので、これを広く伝えていきたいですね。
<まとめ>
井上先生に初めてお目にかかった奄美大島の名瀬徳洲会病院での勉強会では、多くの研修医の先生方に慕われ、楽しそうに話されている先生を拝見し、いい関係性が出来ているんだなと感じました。
そして、井上先生のように組織の中にすべてを見渡せ、熱意を持った兄貴的存在がいるということがこのような大きなプロジェクト推進には必須なのだと感じました。
井上先生は一見すると色黒、筋肉粒々でいかにもマリンスポーツ好きな感じがします。しかし、お話を伺っていると仕事が一番大事で時間もぎりぎりで仕事にうちこまれている。しかし、離島の場合、飛行機の関係で帰れない時もある、そんなちょっとした空白の時間に楽しんでいるとのこと。
その辺のバランス感覚も良い仕事と診療をしていくのに大事なことなのだなと思いました。
今回は短いインタビューでしたが、濃いお話を伺うことが出来ました。また改めてじっくりとお話を伺いたいと思いました。
井上先生、貴重なお時間をありがとうございました!この場をお借りして厚く御礼申し上げます。
<関連サイト情報>
●岸和田病院の内視鏡診療・検査(徳洲新聞)
年間3万件超 実施
離島を中心に21施設支援も含め
https://www.tokushukai.or.jp/media/newspaper/1186/article-1.php
●宮古島徳洲会病院
●岸和田徳洲会病院消化器内科
https://kishiwada.tokushukai.or.jp/sp/section/gastroenterology/
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